インドでは今でもガンジーは特別です。暴力を否定し、不買運動と抗議の行進、そして必要とあれば、断食を行い人々に平和と非暴力を訴えてきたガンジーは、今でも多くの人に尊敬されています。
ただ、私がインドを旅したとき、あるタクシーの運転手の言った言葉が気になります。
「ガンジーは一つだけ間違いを犯した。それは、イスラム教徒に寛容だったことだ」
インドでは、ヒンズー教徒とイスラム教徒の対立が原因でイギリスから独立するときに国が分断され、ガンジーの切な願いもむなしく、パキスタンとインド共和国とに分裂してしまいました。しかも、広大なインド共和国の中に今も数えきれないイスラム教徒が生活しています。
もちろん、この二つの宗教の他にもシーク教徒やジャイナ教徒など、インドにはさまざまな宗教が混在しています。しかし、ヒンズー教徒とイスラム教徒との対立は、19世紀まで存続していたムガール王朝がイスラム教の王朝であり、それ以前にも、ムガール王朝が栄えていた時代にも、数えきれないヒンズー教の国々が存在したインドにおいては、特に目立ったものがあったのです。
日本にも、多数の宗教がありますが、宗教が原因で多数の血が流れた歴史は、戦国時代の一向一揆や江戸時代の切支丹の弾圧などはともかくも、現代史の中ではほとんどみる事ができません。
そんな日本からみると、インドの抱える宗教の対立という問題がいかに深刻かはなかなか理解されないかもしれません。しかし、世界に目を広げれば、それは様々な人種が移動し混在する現代社会の抱える大きな課題といっても差し支えないほどに、一般的な問題なのです。
ガンジー自身はヒンズー教徒です。しかし、ガンジーは、一つのインドを唱えるなかで、ヒンズー教徒とイスラム教徒との融和を常に説き続け、時には断食をして国民に訴えていました。そしてそのことが原因で、狂信的なヒンズー教徒からも憎まれ、1948年に暗殺されたのです。
今、あのアメリカでおきた同時多発テロ事件のように、イスラム原理主義者によるテロ行為が国際社会を震撼させています。また、そのことによって、一般の平和に暮らしているイスラム教徒までが、世界中で差別の対象になっていることも深刻な事実です。
さらに、イスラエルでは、ユダヤ教徒とイスラム教徒との対立が、多くの流血の原因となっていることも周知の通りです。
2008年11月。こうした対立がもとで、ムンバイで、駅やホテルを対象としたテロ行為がおき、インドとパキスタンは、一触即発の危機となりました。
ガンジーが命をかけて説いてきたテーマは、正に現在の国際社会をみる上でもっとも大切なことがらなのです。そんなガンジーの生涯を英語で勉強することは、日本では体験できない海外での様々な時事問題などを理解し、国際人としてコミュニケーションをしてゆく上で、とても貴重なことといえそうです。
「オリバーツイスト」、「クリスマスキャロル」、ともに19世紀のイギリスを代表する作家、チャールズ・ディケンズの作品です。
この二つの作品に共通しているテーマ、それは貧困です。
そして、これはディケンズ本人の子供の頃の体験が深く影響しているのです。
ディケンズの両親、特に父親は海軍の会計士という、堅実にいけばなんら問題のない職についていました。しかし、生来の浪費癖がたたり、一家は破産。なんと債務者が収容されていた刑務所に収監されます。
ディケンズは学校にも通えず、親戚のつてによって靴墨工場で働かなくてはなりませんでした。
時は産業革命下のイギリスです。家内制手工業から大規模な資本と機械による重工業へと生産形態が変化し、労働力の流入により、都市の人口は急激に増加していました。
まだまだ社会保障や労働者の権利などが確立していなかった当時、急速に進む産業革命は、様々な矛盾を社会に産み出したのです。
その代表的な問題が、安い賃金で過酷な労働に従事させられた少年労働者たちでした。少年時代のディケンズは、まさにそうした体験を強いられたのです。
過酷な労働条件に対して抗議する者も後を絶ちませんでしたが、当時のイギリス政府は、抗議活動で工場の機械を壊した者を死刑に処すなど、今では考えられない厳しい姿勢で対応していたのです。
「オリバーツイスト」と「クリスマスキャロル」によって描かれている貧困とは、正にイギリスが世界一の帝国へと成長する途上で発生した、こうした都市部の問題に他ならなかったのです。
ディケンズが靴墨工場で働いたのは12歳のとき。3年間過酷な労働に耐えた後、15歳のときに法律事務所の事務員となったのでした。
その後ディケンズは独学でジャーナリストの道を目指し、文筆業へとはいっていきました。ディケンズは、極貧から叩き上げた作家であるといっても、過言ではないでしょう。
当時、ディケンズのみならず、貧困をテーマにした作品を手がける作家は多く、また貧困に暗躍する悪党をテーマにした小説はピカレスク小説と呼ばれ、人気を博しました。「オリバーツイストに登場する悪漢たちの描写には、そうした背景もあるといわれています。
「オリバーツイスト」も「クリスマスキャロル」も、共に当時のイギリスの都市問題を知り、そこに過酷にも逞しく生きる貧者の姿をみてゆくうえで、大変参考になる小説であるといえましょう。
「武士道」と新渡戸稲造
山久瀬洋二
「武士道」を読むにあたって知っておきたいこと。
それは、なぜ新渡戸稲造が英文でこうした書籍を出版しようと思ったかという動機ではないでしょうか。
新渡戸が「武士道」を書いたのは、日露戦争前夜の1900年です。
新渡戸は、南部藩の武士の子に生まれました。南部藩は幕末に新政府軍に抗い、秋田の久保田藩へ出兵します。幼少期に戊辰戦争の悲劇を目の当たりにし、誰よりも武士のあるべき姿ということを教えられ、自らも考えてきたはずです。
しかし、一方で明治時代にはいり、新渡戸は西欧文化に傾倒し、北海道でクラーク博士の足跡の残る札幌農学校でキリスト教を知り、その後欧米で学び、キリスト者となります。そしてさらに、アメリカ東海岸のメリーランド州で学んでいた頃、キリスト教の中でも特に純粋な魂の活動を説いたクエーカー教徒となったのです。
そんな新渡戸が、神と向かい合い、博愛を説きながらも、日本人としてのアイデンティティである武士道をアメリカ人に紹介した背景は何でしょうか。
迫り来るロシアの脅威に直面し、一面では内村鑑三のように戦争に反対しながらも、他面では日本人の美学を海外に紹介することで、欧米の人々の日本への好感を醸成しようとした、祖国への愛情がそこにあったのでしょうか。
その行為からは、自らの背景を理解してもらおうという、キリスト者としての率直で前向きな意思もみえてきます。
実際、「武士道」が発表されると、その流暢な英語も手伝って、アメリカ社会でたちまち話題となり、当時の大統領で日露戦争の講和にも奔走したセオドア・ルーズベルトの愛読書にもなったといわれています。
では、「武士道」は、ただ海外に日本の価値観を紹介しただけの書籍でしょうか。実は、この作品は二つの文化に挟まれた国際人の苦悶の書でもあったのです。
西欧文明と日本の伝統的な価値との融和と確執。
これは新渡戸がその後も常に悩み、苦悶した課題だったのです。
「武士道」を執筆して32年後、新渡戸は軍国主義化する日本に警鐘をならし、世論の批判に晒されます。一方で欧米においては日本人の価値観や文化を理解してもらおうと奔走しますが、それが時代に逆行し、海外の友人をも失います。
ある意味で、新渡戸稲造は日本人が国際人となったときに陥り易い狭間に引き込まれてしまいます。双方の文化への理解が深ければ深いほど、双方から孤立してしまうという矛盾を彼は抱えなければならなかったのです。悪くすると、それは楽観的な日和見主義いう誤解も与えかねません。
「武士道」は、新渡戸という国際人の先駆けが、欧米に向けてチャレンジした力作であり、同時に、日本人として西欧とかかわる人格そのものの、魂の叫びだったのです。
祖国と、新たに受け入れた文化との狭間をどう見詰め、人類共通の課題である相互理解への道を見いだすか。それは、これからも人類そのものが知恵を出し合ってゆかなければならない永遠のテーマです。
しかも、それは、海外とかかわる人々が個々に体験し、乗り越えてゆかなければならない、ある意味で極めて日常的な、それでいて深刻な問題なのです。
1933年。カナダのバンフでの国際会議に出席した新渡戸稲造は、帰国前に体を壊し、肺炎を併発し、カナダ西海岸の港町ビクトリアで永眠します。
今、ビクトリアと盛岡市はそんな縁で姉妹都市となっていますが、新渡戸の死後の日本がたどった道は、それとは裏腹なものでした。
まもなく日本は中国と出口のない戦争をはじめ、やがて太平洋戦争へと拡大していったことは周知の事実です。
新渡戸が最後に訪れたカナダでも、またキリスト教徒として生きることを決めたアメリカでも、そこに住んでいた日系人は強制収容所に送られ、新渡戸と同じように国際社会で生きる人々が、祖国と居住する国との間で苦しみました。
そして、彼の苦悩はそのまま今でも世界で活躍する多くのビジネスマンが、あるいは日中関係の悪化などで矢面に立った海外在住者が、多かれ少なかれ経験している事柄なのです。
武士道を、そうした側面を考えながら読んでみると、日本の伝統を見事に描いたセンテンスの一つ一つから、グローバルとはなにかという、世界に共通した課題を見いだすことができるはずです。