ナサニエル・ホーソーンの代表作『緋文字』。
この悲恋物語を通して、読者は清教徒が上陸してきて間もないアメリカへといざなわれます。
夫を裏切り、他人の子を宿した主人公ヘスター・プリンは、キリスト教の厳しい掟によって裁かれ、贖罪のために胸に赤いAの文字をつけることを命じられました。しかし、その子の父親は、開拓者が入植して間もないボストンの人々を導く牧師だったのです。
物語に描かれる風景は、ヨーロッパから数ヶ月かけて海を渡り、やっとの思い出たどり着く、まだ人もまばらな新大陸です。
昔の記録をみれば、公的な書類や本国からの役人を乗せた船ですら、たびたび嵐に流され、目的地から遠く離れたところに漂着していたそうです。
新大陸のほとんどは深い森に覆われて、ヨーロッパからの入植者は先住民であったアメリカン・インディアンと交易をし、ビーバーの毛皮などを仕入れてはヨーロッパに送っていました。
ヘスター・プリンが裁かれ、緋文字をつけた姿を公衆の面前に晒された場所は、おそらく現在はコモンと呼ばれるボストンの中心部にある広場でしょう。彼女が立たされた場所では公開の処刑も執行されていました。それは厳粛なものであるはずですが、当時は多分に見せ物のように執り行われ、罪人が絞首されると、人々は拍手喝采をしてその最期を見物していたといわれています。
ヘスター・プリンも、そんな無慈悲な聴衆の前に晒されて、その後はひっそりと街のはずれで、針仕事で生計を立てていったのです。
へスターの夫ロジャー・チングリースは、医者として体の弱い牧師の面倒をみるのですが、内心牧師がヘスターの相手であったことに気付き、復習心を抱きます。
彼の調合する薬はアメリカン・インディアンから学んだ薬草からつくられていました。先住民には、メディスン・マンという呪術師がいて、彼らは独自の知識をもって薬を調合していました。旧大陸から流れ着いたチングリースは、彼らと交流する中で、そうした知識を身につけたのでしょう。キリスト者である著者は、チングリースがあたかも異教徒の魔術師であるかのような印象を読者に与えてくれます。実際、物語の中には、ヒビンズという巫術を使う女性が登場します。ボストンの近くにあるセイラムという町では、へスターの生きていた時代からそう遠くない、1692年に悪魔憑きの流言から魔女狩りが実際に行われ、19名が処刑されるという事件がおきていたのです。実はホーソーンはセイラムの出身で、先祖の一人は、魔女裁判の判事でもあったのです。
罪の意識に苦しむディムズデイル牧師の心理状態は、キリスト教の倫理との葛藤を語る神学論争にも似ています。そこには、病に科学の光をあてていこうとする試みと、宗教的倫理との交錯が読み取れるのです。今でも西欧社会に残るキリスト教的な論理と近代科学という、一見対立する二つの事柄が時には融和し、また乖離してゆく葛藤がホーソーンの記述からも読み取れるわけです。
現在の常識で考えれば、へスターも牧師もなぜそのように苦しまなければならないのかと、時には理不尽にも思えます。彼らの動揺は、いうまでもなく厳格な清教徒の道徳律によるものに他なりません。
当時、入植者は入植した場所ごとに町を造り、規律も町の運営方法も、彼らが集まって設定していました。従って、町ごとに異なる法律があり、常識すら変化していたのです。入植者達の宗教的背景がそれぞれの地域の運営に大きな影響を与えていたわけです。よそ者のスペインの船乗りや、アメリカン・インディアンが、町の規律とは全く無縁のところにいた背景はそこにあります。
そして、その名残は今のアメリカにも色濃く残っているのです。町の犯罪は町の人の判断で裁こうというのが、アメリカでの陪審員制度の原点です。地方分権が徹底し、未だに地域ごとに法律や教育制度まで異なるアメリカの多様性の原点もこうした入植者の歴史に遡ることができるのです。
それ故に、へスターは、二人で町を出ることによって自由を得ようと牧師を説得します。
そして、牧師はその説得に心が傾く中で、自らの罪の告白をしないままにヘスターとの未来を受け入れることに、キリスト者として強い葛藤を覚えるのです。それは、聖書での荒野で悪魔の誘惑と闘う、あるいは十字架にかけられる前夜にゲッセマネの森で祈るイエス・キリストの姿のように、牧師の心を揺るがし、苦しめます。
森での愛し合う二人の会話と、その後の牧師の精神的動揺、へスターに近寄る魔女ともいえるヒビンズという女性など、ホーソーンは物語を構成する中で、そうした宗教的素材を見事に配置したのです。
素材といえば、へスターが産み、そして育てたパールという娘は神秘的です。牧師とへスターが森の中で出会い、心を通わせるとき、パールは川の向こうで一人遊んでいます。
当時、ボストンは村ほどの規模もなく、周囲は鬱蒼とした森でした。森の香りは、海をも漂い、船乗りたちに陸が近いことを知らせていたといわれています。そんな深閑とした森の中で、二人が思いを告白し合うとき、二人とパールの間に川があって、パールの姿は川面にも映っています。
川面に映るその影にも魂を宿らせ、ちょうど昔から森を畏れるヨーロッパの人々が想像するニンフのような、パールとは別の人格をそこに描くホーソーンの意図は不気味です。
19世紀、まさにペリーが日本を目指していた頃にホーソーンはこの小説を書いています。1850年のことでした。
その前年までホーソーンは魔女裁判のあった港町セイラムの税簡に勤務していました。セイラムは貿易港として栄え、近くには捕鯨船の基地も多くありました。当時のアメリカでは捕鯨が盛んで、鯨の脂は蝋燭の材料として重宝されたのです。そんな捕鯨船に燃料を供給する基地として、ペリーは日本に開国を求めたのです。
そして、セイラムは、大森貝塚を調査し、日本にダーウィンの進化論を伝えるなど、明治の日本の学術発展に貢献したエドワード・モースや、モースの紹介で来日し、日本美術を再評価し世界に紹介した、アーネスト・フェノロサの故郷でもあるのです。彼らもホーソーンより後年に活躍したものの、ホーソーンの生きた時代にセイラムで若き時代を送っていました。
ホーソーンは、主人公ヘスター・プリンの時代から200年後に作家として活動しています。まだ、西海岸が充分に拓かれていなかったこの時代、セイラムやボストンなど、東海岸の都市が極東への門戸ともなっていたのです。
ホーソーンはアメリカの黎明期以来、脈々と受け継ぐ清教徒の宗教観をもってこの物語を描いています。しかし、彼の生きた時代のアメリカは、そうした価値観を受け継ぎながらも、世界に向けて門戸を開き、ボストンやニューヨークが移民を吸収しながら大産業都市へと変貌をはじめた時代だったのです。
アイルランドの東部、ミース州にタラの丘という緑の台地があります。
アイルランドは、その昔ケルト人の国で、タラの丘はそのケルト人以前の先住民からも神聖視された場所でした。そして、ケルト人の王たちもそこで、今も残る石柱の前で、即位の儀式を行っていました。
5世紀頃に、アイルランドに聖パトリックがキリスト教を伝えます。
以来、アイルランドは、ケルト文化とその伝統を引き継ぎながらも、カトリックの国として繁栄するのですが、やがて隣国イギリスの圧倒的な武力に駆逐され、植民地となってしまいます。17世紀のことでした。
以来、アイルランドでは独立運動が続き、多くの血が流れます。そしてアイルランドにいられなくなった活動家は、新世界アメリカへと亡命しました。
そんなアイルランドを1845年にジャガイモの大飢饉が襲います。飢饉で離農した極貧のアイルランド人が、移民となってアメリカ東海岸に押し寄せました。
「風と共に去りぬ」の主人公、スカーレット・オハラの一家は、そんなアイルランド移民の中で成功し、南部に大農園を開いたのです。もちろん、オハラ一家は、多くのアイルランド移民とは異なり、もともと裕福なアイルランド人移民だったのでしょう。とはいえ、早くから開拓されたサバンナなど、ジョージア州の海岸部からは離れた未開の土地のある場所に、アイルランド系の人々は入植します。オハラ家もそんな土地を苦労して切り拓いたのでしょう。そして、彼らはその大農園に、アイルランドの聖地タラの名前をつけたのでした。
今、アイルランドの人口は約450万人。
しかし、アメリカに渡ってきたアイルランド系移民の子孫たちの人口は3500万人。なんと、アイルランド本国よりも、アメリカに住むアイルランド系の人の方が遥かに多いのです。
オハラ一族はカトリックを信仰していたはずです。
スカーレットの父ジェラルドはフランス貴族の血を引くスーザンと結婚しますが、フランス貴族も当然カトリック系であったはずです。
一般的には、アイルランド系移民の多くは、プロテスタント系の白人が多いアメリアでカトリックを信仰する貧しい人々です。従って、当時アイルランド系の人々は古くからアメリカに住み着いていた人々からひどい差別を受けることになります。
彼らの多くは都市部に集まり、アメリカ東部のアイルランド系移民の数はどんどん増えてゆきます。やがて、それがひとつの政治的なパワーにまで成長したのです。ニューヨークはその代表的な例でした。彼らは、人口の力をもって、市の政治に進出し、自らの職業をも確保します。今でもアメリカの都市部の警察官や消防士にはアイルランド系の人が多くいるのです。
そんなアイルランド系移民の中にあって、農場経営で成功したオハラ家は、突出した存在だったはずです。
黒人奴隷を使役して大農場経営をしていた南部の人を扱った「風とともに去りぬ」は、黒人活動家などからは常に批判の対象となった作品です。
舞台は南北戦争の頃のジョージア州。
多くの農場経営者は、資金面では北部の資本に依存していました。また、綿花などの産物も、多くは北部の工場で加工されていました。
経済的に北部が南部を支配する中で、貴重な労働資源である黒人奴隷の人権問題がクローズアップされたことに南部は反発します。1860年から61年にかけて、南部が合衆国から独立しようとしたことで、ついにアメリカ合衆国の歴史の中で唯一の大規模な内乱が起きたのです。
遥か大西洋の彼方にあるタラの台地を自らの血として抱きながらアメリカで農場を切り開いたオハラ家。その強い気質を受け継いだスカーレットが、戦争で荒廃した農場タラを自らの生きる土地と定めるクライマックスは、この小説の映画での見せ場です。
その頃、ニューヨークでは、貧しい者に不平等な徴兵制度に反発したアイルランド系移民が、反乱を起こし、多数の黒人がリンチされるという事件がおきています。ドラフト・ライオットという争乱です。差別される者同士が対立し、血を流す構造は、どこの社会でも見受けられる歴史の皮肉です。
この歴史的背景をもとに制作されたのが、レオナルド・デカプリオが主演し話題になったギャングズ・オブ・ニューヨークです。
そして、19世紀終盤から、20世紀にかけて、さらにアメリカ都市部の移民構造は複雑になります。同じカトリック系で、アイルランド系と似た境遇にあったイタリア系の移民が南部イタリアから流れてきたのもその当時のこと。
彼らが生き抜くために造った地下組織がマフィアであることはご存知でしょう。実は、アイルランド系のギャングは、ニューヨークではイタリアマフィアの下部組織として活躍したのです。
一家の中で、兄は警察官、弟はギャングという家も多かったと聞いています。
「ウエストサイド物語」、「ゴッドファーザー」など、多くのミュージカルや映画が、当時のことを題材にして造られました。
そしてこの「風と共に去りぬ」。
これらアメリカの名作の背景にある海を渡ってきた人々の物語。そこにアメリカという国の歴史と現在を彩る共通の価値、そしてテーマがみえてくるのです。
「ジェーン・エア」が発表されたのは、1847年のことでした。
シャーロット・ブロンテは、この作品をカラー・ベルという男性の名前で発表しています。まだ、女性への偏見も根強かった時代です。同時期に小説家として活躍していたメアリー・アン・エバンスも、ジョージ・エリオットという男性のペンネームを使っていて、その方が有名になっていました。そして、妹のエミリー・ブロンテも、「嵐が丘」をエリス・ベルという男性のペンネームで発表しています。
当時、イギリスはビクトリア女王の時代でした。
この時代、産業革命に成功したイギリスは、世界中に植民地を持っていました。人々の目は海外に向けられ、そうした情報や知識も、以前とは比較にならないほど豊富になった時代でした。一方で、産業革命によって過酷な重労働を強いられた人々の間で、労働者の権利意識が高まり、社会主義運動もおきていました。
女性の地位はまだ低かったものの、お隣のフランスでは、ショパンとの恋で知られる女流文学者ジョルジュ・サンドが、社交界に男装で現れるなど、フェミニズム運動の片鱗が見え始めた時代でもあったのです。
そんな背景の中で、主人公のジェーン・エアは、恋愛を貫き、同時に職業を持つ自立した女性として描かれたのです。
実は、ジェーン・エアの経歴は、シャーロット・ブロンテの前半生に重なります。
牧師の3女として生まれたシャーロットは、姉達とプロテスタント系の寄宿学校に入学します。しかし、そこでの厳しい生活と不衛生が元で、二人の姉は肺炎で死亡します。ジェーン・エアが入ったローウッド学園でおきたことと酷似しています。
シャーロットも、ジェーン・エアと同様に、その後家庭教師として自立し、妹エミリー・ブロンテと共に私塾を開こうとしましたが、それは失敗に終わります。
エミリーとは共にベルギーに留学し、末の妹アン・ブロンテも加えて共同の詩集を発表するなど、姉妹そろって文筆活動を展開したのです。
しかし、そんなエミリーもアンも夭折し、シャーロットは一人ロンドンで文筆活動を続けるのです。その時彼女は実名で活動を始めます。女性の作家としての自覚がそこにはありました。
シャーロットは、父親の反対のために結婚をためらっていたアーサー・ニコルズという男性と1854年に結婚しますが、その直後に妊娠中毒症で38歳の生涯を閉じます。エミリーの死後6年が経過しています。
「ジェーン・エア」に描かれているのは、伝統的な価値観の残るイギリスの地方の風景です。今でこそ地味に見えるジェーン・エアですが、家庭教師として自立し、しかも自らの恋愛を貫き、求婚を断り傷ついた貴族ロチェスターの元に走る姿は、当時としては異色でした。そして、小説に描かれるジェーン・エアは、特に美人でもなく、風貌からいうならば、ごく普通の女性でした。これも当時の小説としてはあまりないことです。
色々な意味で、シャーロットは当時としては画期的な小説を書いたのです。
シャーロットとロンドンで交流のあった女流作家エリザベス・ギャスケル、そしてギャスケルの作品を紹介したジョルジュ・サンドなど、シャーロットは、短い生涯を充実して生き抜いた聡明な女性です。現存する彼女のポートレートから見る限り、美貌と知性を併せ持った人のようでした。
エミリー・ブロンテの「嵐が丘」で復讐に燃えるヒースクリフという男性。そしてこの「ジェーン・エア」に描かれる狂人の妻を地下牢に隠すロチェスターという貴族。
ブロンテ姉妹のこの二つの作品に共通する男性の描き方の背景に何があるのかはわかりません。ただ、彼女らの父親が敬虔なプロテスタントであり、シャーロットの弟で、ブロンテ兄妹のただ一人の男性であったブランウエルの人生がその父の教育が原因で破綻し、アルコール依存症に苦しんでいたこと、そして思春期に姉二人を寄宿舎で失い、その学校の教師が、ジェーン・エアが子供の頃に彼女を苦しめた教師をモデルにしていることなどが、二人に共通した男性像を描かせたのかもしれません。
ビクトリア朝時代のイギリスを代表する作品「ジェーン・エア」は、そのシンプルなストーリーの中に、当時のイギリスの様々な事象を織り込んだ名作なのです。